大正八年、横浜の豪商、安部幸兵衛氏は当時の金で百万円を公共事業に役立てるために県に寄附したい、ということを言い残して亡くなられました。その言葉を受けて県が用途を一般募集したところ、図書館・病院あるいは育英資金にというふうに、使用申込が数十件にも及びました。煙洲先生はその頃、横浜高等工業学校の創立に関係していたことから、その資金で商業と工業をあわせた中等学校を設立して、横浜高等工業学校の附属、つまり文部省直轄の学校にしたいと考え、この件を申し出て運動をしたのです。この申し出の裏には、商業系と工業系との間でお互いに知識の交流をはかり、理解と親しみを深め、さらに商工協力して、工業技術的な面と経営・経済的な面とに役立つ人材を養成する目的があったのです。
ところが、文部省直轄か県立かで意見が分かれ、設立の話はそのままになっていました。
ある日、煙洲先生は桜木町駅前の大江橋の上で見知らぬ人から、県下に新しく商工学校が設立されることについての喜びの声を聞かされました。そこで、文部省直轄か県立かのことで争っていては大局から見て筋が立たないと考え、ともあれ、県立としての設立を引き受けることにしたのです。校舎は、当時開校の準備が整っていた高等工業の余裕のある部分を使い、大正九年、同時開校にこぎつけました。
ところが、開校四年目を迎えようとした時に、四年生が生まれるということで問題が生じたのです。それは商工実習が三年制の乙種(注1)であるか五年生の甲種(注2)であるかという点でした。県としては乙種と考えていましたが、商工側はあくまでも甲種のつもりでいたのです。この食い違いの結果、一時は廃校措置までとられそうになったため、煙洲先生は、私立にしても経営するというふうに考えるまでになりました。しかし、結局二代校長となられた山本政人先生(煙洲先生の広島高師・教授時代の教え子)の働きもあって、ようやく甲種五年制にこぎつけることができました。
以上のような経過で、煙洲先生の初志は、安部幸兵衛翁の多大な寄附を得て実現を見るにいたったのです。
神奈川県立商工実習学校創立にあたっては安部幸兵衛翁、鈴木煙洲先生、山本政人先生の名を忘れることはできないでしょう。
山本政人先生 鈴木煙洲先生 安部幸兵衛翁
注1)甲種 小学校卒業後、五年間実業教育を受けるコース。
注2)乙種 高等小学校(今の中学校に相当)卒業後、三年の実業教育を受けるコース。
※同窓会発行90周年記念誌「名教自然」より